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平成23年度 インダバ (指導者のつどい)
8 徳川道(西国往還付替道)について

幕末の嘉永6年(1853年)、ペリーの黒船が来航し、その後、イギリス・ロシア・オランダ等も日本に訪れ、親和条約が結ばれます。 安政5年(1858年)には、日米修好通商条約が結ばれ、日本は鎖国を解き、長崎・函館・神奈川・新潟・堺の 5つの港を開港することになりました。 しかし、堺は古い都の跡に近いため、代わって兵庫を開港することになったのです。

ところが兵庫には元々港があるだけに、当時 2万人の人が住んでいて、外国人が入るのを嫌ったのでしょうか、無人の土地であった神戸に、新たに諸施設が開設されることになりました。

入港して来た外国人のための居留地は、東西は生田川と鯉川の間、北は三宮神社まで(大丸のあたり)に建設されることになりました。

しかし、そうなると居留地は、西国街道に接することになります。

徳川道-1

神奈川(横浜)は、安政6年(1859年)に開港しますが、文久2年(1863年)、神奈川に近い生麦村で、薩摩藩の島津久光がイギリス人に殺傷を与えるという「生麦事件」が発生しました。 攘夷論の渦巻く中、このような事件もあり、街道と居留地が接していると、外国人との衝突が起きることが懸念されました。

そこで、居留地の建設と並行して、居留地を迂回するように西国街道を付け替える工事も進められたのです。 そうやってできたのが西国往還付替道でした。

懸念は、的中することになります。 明治元年(1868年)1月、神戸三宮で、岡山藩士の日置帯刀(ひき たてわき)が外国人との衝突を起しました。 いわゆる「神戸事件」が勃発したのです。 これは外交問題に発展しますが、問題を起した岡山藩士たちは、神戸の裏山から東へ逃げてしまいました。 このときに徳川道を通ったとすれば、この付替道が使われた唯一の例のようです。 というのも、明治元年3月には、神戸市内で居留地を迂回する道路(相生町〜宇治川〜花隈〜城ヶ口〜北野)が出来、西国往還付替道は無用になってしまったのです。

8月には西国往還付替道は廃止となり、田畑を潰して作ったところなどは元に戻されるなど、道路は形を留めなくなり、歴史の闇に一旦、埋もれてしまいました。

徳川道-2
神戸事件のあった三宮神社

しかし、明治末期から、昨年紹介した、ドーント氏を初めとする外国人がこの道を利用しました。 ドーント氏は「INAKA」に、この道を徳川ロードとして紹介しています。 また、明治43年に発足した登山グループ「神戸草鞋会」の人々などがこの道を整備し、いつしか現在のハイキング道の部分に徳川道の名称が付けられたのです。

徳川道の部分を除き、その所在が分からなくなっていた西国往還付替道ですが、神戸市の調査により、下図のとおり、明石から石屋川のルートであったことが解明されています。

徳川道-3