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平成19年度インダバ −「Boy man」とは?

まだ Boy manでない人は、以下を読んで、その心を理解しておきましょう。
インダバへの「パスポート」です。

「隊長の手引き」(B-P著)より

隊長

隊長になろうとする人たちに気安く感じてもらうための前おきの言葉として、よい隊長となるには "驚嘆すべきクライトン" ――物しり博士―― でなければならないという世間一般の間違った考え方に私は反対しておきたい。そんな必要は全然ない。

ただボーイ・マン(童心の大人)でありさえすればよいのだ、ということは―――

(1)自分の中に少年の心を持たなければならない。その第一歩として少年たちと一緒になれなければならない。

(2)年齢層の違いに従って少年たちの必要とするもの、目ざすもの、希望するものが何であるかを理解しなければならない。

(3)少年たちを、集団としてではなく、個々の人間として取扱わなければならない。

(4)その上で、最良の成果を得るために、個々の少年たちの間に団結の精神を育ててやらなければならない。

原文「Aids to Scoutmastership」

THE SCOUTMASTER

AS A PRELIMINARY word of comfort to intending Scoutmasters, I should like to contradict the usual misconception that, to be a successful Scoutmaster, a man must be an Admirable Crichton - a know-all. Not a bit of it. He has simply to be a boy-man, that is:-

(1) He must have the boy spirit in him; and must be able to place himself on a right plane with his boys as a first step.

(2) He must realize the needs, outlooks and desires of the different ages of boy life.

(3) He must deal with the individual boy rather than with the mass.

(4) He then needs to promote a corporate spirit among his individuals to gain the best results.

「パトロールシステム」(ローランド・フィリップス著)より

第 1 7 章
難 点

本書を読み終った人の中で、こんなことを考える人があり得ると思う。 ある隊長はこういうかも知れない。 「私は、この班制教育というものが、隊を組織して、これを運営する上に、一番よい方法であることには、全く同意する。 また、全国の最上の隊が、全面的に、この方針で運営されて来たことも私は充分認める。 しかし、私のおかれている特殊な立場から見ると、私の隊では、この班制教育を採用することは不可能である。」と。 また、ある隊長は、自分の隊の少年たちの特殊性を前置きとして――彼等の桁はずれのムラ気や、驚くべき頑固さ――を訴え、またある者は、隊員たちの家が遠く点在していて、暗い冬の夜は往復に困まるという。 また、ある隊長は自分の隊では、年上の隊員に関して、特殊な困難があるとし、一方それに対して、他の者は年下の者のことにのみ置かれていることを発見する。 あるものは副長をもっていないから、彼の隊で、班としてはやれないという。 また、1人の隊長は、自分は妻と、3人の子供があり、役所の仕事から帰ると、もう、おそくなる。 だから実行不可能だという。

けれども、忘れてならない点は、町の隊でも田舎の隊でも、総長のいわれた線の通りに、万事順調にいっている隊は、一つもないということである。 そこで、これは特殊な困難の状態のもとにおいて、少年たちと一緒に働く異常な男を、我々仲間の中から、隊長として得ることは、ほとんど不可能だということをすぐ認めることになりそうだ! だが、この異常ということに、全ての魅力が、かけられている。 大体この運動自体が風変りである――その特異性が、我々の励みになる。 ――そして、これを成功させるには、異常な人々の援助と、独特の訓練方式と、特殊な組織法が要求されるのである。 かような方式を、ちぢめていったものが、――「班制教育」という題目になる。

こういうと、隊長は、再びいうかもしれない。 「私は、この方法で訓練することを信じる。 しかし、私は今まで、2年か3年か、全く、別のやり方で運営して来た。 だから、今更それを変更することは出来ない。 もしやり直したとしても、それは、ちがったものになるだろう。」と。 だから、ここでは、どんな不可解や誤解があろうとも、それから来るどんな不可能を乗り越えても、この班制教育というものは、決して死案ではないことを述べたい。 これは、特殊な、心の持ち方から来るものである。―― それは一つの心の態度から起る。 少年の人格訓練および教育というものは、内部から抽き出すべきもので、外部から押し付けるものではない、という信念である。 実際のことをいうと、少年の方からスカウトにならなければいけない。 ――誰もが彼等をスカウトに、はたから、しようとしても出来るものではないのである。 シャツや、半ズボンは、そとからくつつけられるが、それは、心のそとだけのことで、少年自身の心と魂の中からこそスカウティング精神が抽き出され得るもとである。 この心の持ち方を作り出すには何年という歳月を要しない。 「スカウティング・フォア・ボーイズ」を、少年の立場になって、くり返えしくり返えし読むならば、1週間以内に、それは出来るのである。

この班制教育をやり始める方法は、少年たちと共に、班というものが、独立自存の単位であるという考え方について、あらかじめよく語りあい、しかる後、時機を失わず、名誉会議を創設することと、班対抗競点を行なうというこの二つを、隊の恒久的な制度とするにある。 そうすれば、その他のことは、隊員たち自身の手によって伸びてゆくであろう。